アズーリ・デヴュー 〜 移籍騒動
〜 '90 W杯
1988年11月16日 |
イタリア代表デヴュー ローマ スタジオ・オリンピコでの対オランダ戦に11番を付け 先発出場 スルーパスでヴィアッリの決勝点をアシストする |
1989年4月22日 - 22歳 |
対ウルグアイ戦でフリ―・キックから、イタリア代表初ゴールを決める |
1989年7月1日 |
長年交際していた、あの夏スクーターに乗っていたA嬢と結婚する |
11月19日 |
フィオレンティーナVSアスコリ戦でセリエA初のハット・トリックを達成する |
この頃バッジョは、家族や夫人から信仰について猛反対を受ける 特に母親はバッジョを元の信仰に戻そうと強く働きかける |
また、後に社会問題まで発展した移籍騒動がくすぶり始め出す バッジョと当時のチーム・オーナーである ポンテッロ伯爵との関係は以前から険悪なものであり 未だに修復されていませんでした 89−90シーズンは開幕直後からバッジョの移籍について 話題が絶える事はなく契約切れも 90年6月30日までとなっていました |
11月30日 |
200人のティフォージがバッジョに残留を求めるデモ行進を バッジョの自宅前まで行い、バッジョにも残留を求める 直接行動にでました バッジョは「フィオレンティーナに残りたいけれど そのためにはオーナーのポンテッロがチームをもっと補強し 正当な契約を出して欲しい」と答え 200人のティフォージに契約延長に応じる事を約束し 「壁にバッジョはフィオレンティーナを出て行かないと 書いてもいい」と言いました |
1990年1月20日 |
イタリアの最も有名なスポーツ紙 - カゼッタ・デッロ・スポルトが バッジョのユヴェントス移籍を報道 これを受けてバッジョは「ユヴェントスとの誰とも会っていないし いかなるサインもしていない」と全面否定する |
2月17日 |
対ナポリ戦でティフォージは抗議のストライキをし彼らが陣取るはずのスタンドは 空席となった さらに、5.000人がフィレンツェ市内で デモを行いポンテッロ伯爵邸前で「クラブを他の人間に売り渡せ!!」と叫んだ |
4月29日にセリエA最終を節終了したが ポンテッロ伯爵はバッジョの去就について 何の発表もせず契約切れまで2ヶ月となった そして・・バッジョは「私はフィオレンティーナを愛しているし ここに残りたいと思っている。 でも私にその選択は残されていない ポンテッロ伯爵はピノキオよりもうそつきだ」と涙ながらにコメントした バッジョは、フィレンツェの街事態に愛着を持っており 第一子誕生の直前でもありフィレンツェに生活の拠点を置く準備をしていた |
バッジョ1990年地元イタリア大会のWorld Cupメンバーに選出される |
5月3日 |
ティフォージの中でも過激な「ウルトラス」と言われるグループが フィオレンティーナ本部でポンテッロ伯爵を襲撃し車を破壊する |
5月17日 |
モデーナでバッジョがユヴェントスへの移籍を正式に発表 |
フィレンツェ市内で暴動が起こる 結局・負傷者50人 ( 内30人は警官 ) 逮捕者15人・起訴36件・拘置54名という 悲惨な数字が残りました そして一部の暴動者はフィレンツェ郊外のコヴェルチャーノへ行き 1990World Cup へ向けて代表合宿中のバッジョへ抗議を繰り返した バッショにとって、とても辛い日となった フィオレンティ―ナと、ユヴェントスとの関係は、バッジョの移籍以前から 関係が悪かった。 82年には1ポイント差でユヴェントスが優勝 90年の、UEFA杯でも、ユヴェントスが優勝していた ユヴェントスは、イタリアでも最も人気のあるクラブで イタリア中にファン・クラブがあるが、唯一存在しないのが、フィレンツェ 以前1度だけ、ユヴェントスのファン・クラブができだが、燃やされてしまた しかしバッジョはこのシーズンのプレーでイタリアのスポーツ誌 グェリン・スポルティーボの89−90欧州 3大杯24歳以下の最優秀選手賞 ブラヴォー90を授賞した |
6月9日 |
1990World Cup イタリア大会・第1戦 イタリアVSオーストリア
( 1−0 ) バッジョは15番をつけてベンチ入りするも出場の機会に恵まれず |
6月14日 |
第2戦 イタリアVSアメリカも出場の機会に恵まれず |
6月19日 |
WORLD CUP初ゴール |
第3戦 イタリアVSチェコスロバキア ( 2-0 ) スキラッチとのツートップで先発でW杯初出場77分左ハーフライン過ぎから 芸術的なドリブルで相手DF陣をすり抜け華麗なゴールを決めた バッジョのW杯初ゴール!! このゴールは大会史上最も美しいゴールと称えられる バッジョ「個人的な歓びはチームのためにゴールを出来たことの次に来る でも、私はとにかくプレーしてゴールしたかったのだから 胸のつかえが取れたよ」 と語る |
6月25日 |
決勝トーナメント第1戦 イタリアVSウルグアイ ( 2-0 ) 先発出場 |
6月30日 |
準々決勝 イタリアVSアイルランド ( 1-0 ) 先発出場 |
7月3日 |
準決勝 イタリアVSアルゼンチン ( 1-1 ) ( PK3-4 ) マラドーナひきいるアルゼンチンに対しヴィチーニ監督は バッジョではなくヴィアッリを先発させる 17分にスキラッチの得点で先制するも、67分にカニーヒャアに 同点とされるバッジョは73分にジャンニーニと交代出場 延長105分にはボールと関係のないところで 相手選手からラフ・プレーを受け、相手選手は退場となり 11対10と人数の上では優位に立つが結局PK戦へ バッジョは成功したもののアルゼンチンの GK・ゴイコエチアに2人がとめられ敗退地元優勝への夢はついえる |
7月7日 |
3位決定戦 イタリアVSイングランド ( 2-1 ) 先発出場 70分に先制ゴールを決め84分にはPKを得るが得点王のかかった スキラッチにキッカーをゆずりスキラッチは 見事に決め自身も得点王を手中に収めた イタリアは結局3位で地元大会を終えた バッジョ は、後年、生涯に一度あるかないかという 地元イタリア開催のW杯を 「苦々しさを持って終えたと」答えている |
チェコスロバキア戦でバッジョはW杯初ゴールを決めた後 歓喜でフィールドに長い間横たわっていた 誰もがバッジョはゴールの歓喜にひたっていると思っていたが 同時にバッジョは心の中で仏法に出会ったことに 感謝を捧げていたという イタリア創価学会に正式に入会して2年目 未だ自分が仏教徒である事を公にしておらず 自身の移籍が社会問題にまで発展したうえ 家族の反対も強いなかではあったがバッジョは 益々自分が日蓮大聖人の仏法また創価学会の世界に ひかれていくのを感じていた バッジョは語る「自分の運命を切り開くのは、このピンチの時こそだ !! 」 ロベルト・バッジョ 23歳の夏は終りそして・・・・。 10日間の短い休養を実家で過ごした後、ユヴェントスの練習へ合流した・・。 |